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「星座」の歴史

●一番、最初に星をみていたのは誰?

 夜空を見上げると、星が輝いています。最近は、街の明かりがどんどん明るくなってしまって、たくさんの星々、満天の星空を見ることが難しくなってきました。でも、車で高い山などに登ると、(大崎地方ではちょっとたんぼ道を歩くと?)昔の人たちがみたような満天の星空を楽しむことができます。
 昨年パレットおおさきに「一番、最初に星をみていたのは誰?」という質問が届きました。誰という質問には答えられなかったのですが、いろいろ調べていくうちに、こんな研究が発表されていました。それによると、フランスのラスコー壁画(1万5千〜1万年前)に描かれたいくつかの黒い点々が、おうし座のすばるを、また夏の大三角と模写したと思われる、というのです。この研究が正しければ、「星をみてそれを記録した最古の人々は」1万5千〜1万年前のフランスに住む旧石器時代の芸術家たち、ということになるでしょうか。

●「星座」とは

 それから時代が進み、昔の人々は、明るい星をむすんで「星座」を想い描きました。星座とは、星と星を結び,動物や人物、道具などに見立てて,天球上の区分としたものです。
星座は、英語で、コンステレーションconstellationです。conは「共に」という意味があり、stellaは「星」、tionは名詞につく語尾の言葉ですので、直訳すれば「星の集まり」「星の散らばり」となるでしょう。
 現在普通に使われている星座は、西洋から伝えられた星座です。しかし、日本で星座といえば、明治初期までは、中国の星座「星宿」でした。西洋の星座が日本に入ってきた明治期以降も、しばらくの間、constellationは「星宿」と訳され、大正期ごろよりやっと「星座」と呼ばれることになったようです。

●星座の起源

 さて、星座は、いつ、どこでだれがつくったのでしょうか。

 かつて、星座は「ギリシア星座」と呼ばれていた時代がありました。ご存じのように、星座には、豪華絢爛、ドラマチック、ロマンティックなギリシア神話が描かれていたからで、星座の歴史も、今から3000年ほど前のギリシアで始まったものと考えられていたのです。しかし、今から100年と少し前になって、だいぶ話は違ってきました。

 今のイラクのあたりに、チグリス川・ユーフラティス川という二つの大きな川があって、そこにかなり古くから文明が栄えていたのはご存じかと思います。歴史の教科書でもおなじみの「メソポタミア文明」です。メソポタミア文明といえば、粘土などに尖ったヘラのようなもので刻んだ「くさび形文字」が有名ですが、そのくさび形文字が彫り込まれた粘土板などから、文明の詳しい様子、そしてギリシア以前の星座の古い歴史が明らかになってきたのです。今では、星座は、ギリシアより現在はもっともっと古い約5000年あるいはそれ以上も前に、今のイラクを中心としたメソポタミア地方で起こったものとされています。

 星のガイドブックや星占いの本には、よく「約5000年前、カルディア人(新バビロニア人)という羊飼いが、夜羊の番をしながら、空に星座をつくっていった」とあります。多くの人がこのような文章を目にし、これが常識だとお思いではないかと思います。しかし、これもあやまりです。星座の起こりについては、実は、まだまだはっきりしないことが多くありますが、カルディア人が活躍したのは約3000年前のことですし、カルディア人よりもっと古い今から約5000年も前にシュメール人やアッカド人といった人たちがつくり始めたのが星座の始まりの始まりではないか、というのが定説となっています。

 

1.黎明期〜メソポタミア

(1)シュメール人・アッカド人

 シュメール人は、BC.3500ごろに繁栄したセム系(メソポタミアを統一したアッカド人やバビロニアを建てたアムル人、新バビロニアを建てたカルデア人、シリアを中心に活躍したフェニキア人、イスラム教を生んだアラブ人など )の農耕民族です。神殿や塔など日干し煉瓦の建築物を建設したことなどがわかっています。BC2400頃、同じくセム系の農耕民族アッカド人に征服されますが、シュメール人もアッカド人も、共に高度な文明を築いた農耕民族で、星空をよく見ていた形跡があります。2つの民族の伝承によれば、

  恒星全体は「天の羊の群」
  太陽は「老いた羊」
  惑星は「老いた羊の星」、星にはみな羊飼いがいる
  “ジブジアナ”という明るい星は「天の羊の群の羊飼い」

 研究者は、ジブジアナをアルクトゥルスと考えており、もしこれが正しいとすれば、すでに、うしかい座の原型ができあがった、ということになります。
 しかしながら、シュメール人もアッカド人も、現在も使われている星座そのものをつくったという直接の証拠がないのが痛いところです。シュメール人によって星座の名前や絵を書かれた粘土板は、今のところまったくといっていいほど見つかっていないからです。しかし、メソポタミアで以降つかわれている星座の名前は、たいていがシュメール語で書かれているそうです。そういうところから、星座をはじめてつくった人としてシュメール人の名前があげられてくるわけです。
 ですから、星座の原形をシュメール人がつくり、それに続くメソポタミアの人たち<アッカド・アモリ・アッシリア・カルデア(バビロニア)といった人たち>が、星座として発展・整理していったのではないかと考えるのが自然なわけです。いつの日か、星座の名前が書かれたシュメールの粘土板が発掘される日が来るといいですね。

(2)アモリ人・カッシート人・

 さて、はじめて考古学的に星座の名前が登場するのは、今から約4000年前のことです。紀元前2000年頃、シュメール・アッカド人のあとにアモリ人(アムル人ともよばれる)です。アモリ人は、「目には目を歯には歯を」で知られる『ハンムラビ法典』で有名な古代バビロニア王国を作った民族。彼らも、シュメール・アッカドの高度な文明を受け継いでいました。アモリ人のが残した、今から3800年前のBC1800の記録には、荷車(おおぐま座)、天の狩人(オリオン)といった星座や、現在も星占いの星座として知られる「黄道十二星座」のうち、いて・かに・てんびんを除く黄道9星座が登場しています。つまり、このアモリ人が、「確実に星座をつくった、とりあえず確実な人たち」ということになります。農業を行うために、星ををよく観察し季節を知る必要性があり、やがて暦をつくっていったのでしょう。
 その後、ハンムラビ王が亡くなって、古代バビロニア=バビロン第1王朝が衰退していくと、カッシート族に国をのっとられてしまいます。カッシートの時代は400年も続きますが、あまりよくは知られていません。しかし、境界石(クッドルー)と呼ばれる石碑が大きく注目されます。
 クッドルーは、王が領主に授けた土地所有についての誓約書のようなものだとされています。楔形文字と絵が書かれていて、その絵には動物の姿が多く描かれています。かつては、これが星座絵だといわれていましたが、残念ながら、神々の姿(シンボルマーク)である、ということに現在は落ちついているようです。
 しかし、クッドルーの絵の中には、魚ヤギやサソリ人間、水がめをもつ女神があったりして、これが星座のもとになっていった、という見方もできそうです。

(3)アッシリア

 今から約2700年前の紀元前6〜7世紀、アッシリア朝と呼ばれる時代になると、黄道12星座だけでなく36の星座が、粘土板に描かれるようになっていきます。アッシリアの王の中でも有名なB.C.669から626のアッシュール・バニパル王は、粘土板をたくさん作りました。その中にいろんな星座が書かれた資料も多く含まれています。黄道12星座を含む36の星座がみつかっており、星座の基本が確立したことがうかがえます。

(4)カルディア人

 今から約3100前になると、先ほど紹介したカルディア人が登場します。カルディア人は紀元前1100年ごろ、メソポタミアにやってきたアラム系(今のシリアのあたり)地方遊牧民です。そのころのネブカドネザル1世がつくった境界石にはいて座・さそり座・うみへび座などの星座名が認められています。
 B.C.645頃からB.C.550頃まで繁栄したカルディア王国(新バビロニア王国)は、カルディア人が起こした王国ですが、彼らは、天文学・数学などを発達させました。「天文学はカルディアの賜」といわれるほど、カルディアの自然科学や天文学は高度でした。1年が12カ月、1週間は7日、1日は24時間、角度の1周は360度といった現在の常識となっている単位は、みなカルデアで産まれました。また、惑星の会合周期や日食予報など、かなりしっかりと計算され、粘土板にもその数字が残されているといいます。

 

*エジプト文明と天文学

 星座の起源はメソポタミア地方ですが、古くから、エジプトでも天文学が発達しています。
 古代エジプトの中心地は、ナイル川下流の広い三角州(デルタ地帯)とナイル川中流の細長い平野部分の関東地方ほどの面積の場所でした。ナイル川では、毎年夏になると大雨が続き、そこに高い山の雪解けが重なり、下流・中流は洪水に見舞われるのでした。洪水はまた、人々に肥沃な土地を与え、早くから農業が豊かに発達しました。
 古代エジプト人は、ソティス(=水の上の星の意味、おおいぬ座のシリウス)を重要視しました。それは、全天で一番明るい星であったということと、シリウスが夏の間太陽の光で約70日程姿が見えなくなった後、夏至の頃日の出直前に現れる始めると、間もなくナイル川の増水が始まるからです。このシリウス=ソティスが日の出の直前に見え出す日が、エジプト暦の元旦とされ、そのような注意深い観測から、1年を365日という、現在も私たちが使っている太陽暦を手に入れることになったのです。

 このように、エジプトでも天文学が発達し、星座もつくられました。エジプトは太陽の通り道にそって36個星座をつくり,時を測りました。今から3000年前の紀元前1000年頃には、クレオパトラが新婚旅行で行ったというエジプトのデンデラ遺跡のイシス神殿の天井にはほとんど完全な全天の星座が描写されています。このころ、エジプトでは星座の知識はかなり高度なものとなった証拠でしょう。このなかで、獅子座、やぎ座、双子座、牡牛座等はメソポタミアの星座とは同じですが、そのほかはエジプト独自の星座が描かれています。それらはメソポタミアの星座とはかなりことなります。

(5)フェニキア人

 さて、再びメソポタミアの星座の歴史に戻りますが、紀元前2000年頃から、今のシリアのあたり地中海の東部沿岸にはフェニキア人という、船に乗って貿易を行うのが得意なセム系の民族が活躍します。この民族は、航海のために星を大切な目印にする必要から、メソポタミアの古代星座の知識をかなり持っていたのです。彼らは、場合によっては、ジブラルタル海峡を通って大西洋にわたったり、ひょっとするとアメリカ大陸にもわたっていたのではないか、といわれていますが、航海の主な目的は、同じ時代から文明が起こったギリシアとの間の貿易だったのです。 ですから、メソポタミアで発生・発展した星座の知識は、やがて、フェニキア人によって古代ギリシアにもたらされることになります。

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2.発達期 〜ギリシア時代

 ギリシアに伝わった星座の知識は、空想力豊かなギリシアの詩人や哲学者・科学者によって次第に、ギリシア古来の神様や伝説、西アジアの多方面に古くから伝わる神話や伝説の神々、英雄などを星座の中に当てはめていきます。それが、絢爛豪華な星座神話の始まりにとなっていくわけです。

(1)ホメロス

 まず、ギリシア最古の物語(叙事詩)は、紀元前9世紀頃ホメロスの書いた「イリアス」と「オデュッセイア」です。「イリアス」はトロヤ戦争で活躍する英雄たちの物語、「オデュッセイア」は、トロヤ戦争後の英雄オディッセウスの冒険物語ですが、このなかには今私たちが聞くギリシア神話の主要なものが入っているばかりでなく、太陽や月、プレアデスやヒアデス、おおぐま座、オリオン座、うしかい座、オリオンの星・シリウスなどの星座や星の名前も多く含まれていて、ギリシア星座を考える上で最古の文献となっています。

また大空をぐるりと取り巻く 星座の数をすべて尽くして、
プレイアダスの七つ星やら、ヒュアダス(雨星)やら、荒々しいオーリーオーンや、
熊の星とて、世間で人が北斗とよぶもの、この星座は
同じところをぐるぐる廻って、オーリーオーンを目の敵にし、
ただ一つだけのオーケアノス(極洋)の水へ浸りに入らないという

     (イーリアス第18書 第483行〜489行 呉茂一訳 一部変)

(2)ヘシオドス

紀元前8世紀末とされる時代のヘシオドスは、『仕事と日々』という民衆の生活を詠った詩を書いています。これは、だらしない生活を送る弟を戒めるために書いたとされますが、一種の羊飼いのカレンダーで、ここにはプレアデス、ヒアデス、オリオン座、シリウス、アルクトゥルスの名前が明示されています。
 また、彼は『神統記』という詩を書いていますが、これはギリシアの神々の系統を説明したもので、なぜゼウスが世界を支配するようになったのかが説明されてます。

(3)6世紀の詩人たち

紀元前6世紀にかけて、ギリシアの詩人たちが取り上げる星座は、次第に増えてきます。たとえば、ギリシアの作家アグラオステネスは今日のこぐま座(キノスラ=犬の尾)やわし座をあげ、クレタ島の詩人エピメニウスはやぎ座やぎょしゃ座のカペラをあげ、シロスの詩人フェレキデスはオリオン座が沈むとさそり座が昇るという天文学上の事実を述べたり、アトラスの娘であるプレアデスの7人姉妹の伝説を書き、ヘラニコスはヒアデスの形、また5世紀のミレトスのミレトスの詩人ヘカタイオスはうみへび座の伝説などを描くようになります。

 紀元前5世紀のアテネの天文家エウクテモンは、天気カレンダーを作成し、この中で、みずがめ・わし・おおいぬ・かんむり・はくちょう・いるか・こと・オリオン・ペガスス・や座、ヒアデス、プレアデスをあげ、それらと気候の移り変わりについてに言及しています。

 (4)アラトス

さらに時代が下り、紀元前3世紀末になると、ソロイで医師・詩人として活躍したアラトス(BC315240)が登場します。彼はこれよりも前の天文学者エウドクソスなどの天文学書を1154行に韻文化した『ファイノメナ』を書きました。その中で、ギリシャからみえる44個の星座、これは当時知られていたすべての星座であり、その形や出没、星座神話をめぐる長編の詩。現在知られる星座の多くが含まれ、これが後にラテン語化されローマ文化圏に及んでいくという、画期的な星座解説書となります。

アラトスが描いたギリシア初期の星座

<北天19星座>

おおぐま・こぐま・うしかい・りゅう・ケフェウス・カシオペヤ・アンドロメダペルセウス・・さんかく・ペガスス・いるか・ぎょしゃ・ヘルクレス・こと・はくちょう・わし・や・かんむり・へびつかい(へびを含む)

<黄道13星座>

おひつじ・おうし・ふたご・かに・しし・おとめ・てんびん・さそり・いて・やぎ・みずがめ・うお・プレアデス

<南天12星座>

オリオン・いぬ・うさぎ・アルゴ・くじら・エリダヌス・みなみのうお・さいだん・ケンタウルス(おおかみを含む)・うみへび・こっぷ・からす

*へびつかいとへび、ケンタウルスとおおかみを分離させたのは、ヒッパルコスやプトレマイオス。プトレマイオスの48星座にあるこうま座には触れていない。

 

(5)ヒッパルコス

 紀元前2世紀になると、トルコのニケア生まれのヒッパルコス(BC190120)という偉大な観測天文学者が現れます。彼の功績の第一は、まず、星の位置を観測し、その位置をカタログ化した「星表」を作製したことです。アラトスは、実際にはあまり星を観察していなかったようですが、アラトスの記録を修正した上で、肉眼で見えるすべての星の位置と光度を正確に観測し、そのうち1080星を含む星表を作成しました。これには49星座が記録されています。

 彼が観察して、明るさを分類した方法が、明るい星を1等星として肉眼で見える最も暗い星を6等星とし、6段階に分けるというものです。つまり、現在もわたしたちが使っている、明るさの分類方法を生み出した人です。現在では、さらに科学的に、1等星と6等星の明るさの差を100倍とし1等の違いは2.5倍としていますが、いずれにしても、天文学史上に名を残す大天文学者といえます。彼は、詳しい観測によって、星が時代と共にその位置が動いていることにも気づきました。これは、私たちの地球の回転軸の方向が、時代と共に変化する「歳差」として知られています。

このヒッパルコスの偉業をたたえ、ヒッパルコス衛星が1989年にうちあげられ、12万個の星の位置を、これまでの100倍の精度で観測しました。これは6枚のCDROMになりましたが、これまでのどんな星の表よりも高精度で、多くの星が含まれています。

 

(6)トレミーの48星座

 さらに時代はくだり、紀元後2世紀になると、これらの古代星座を集大成させる大事業が果たされます。ギリシアの天文学者・数学者・地理学者・自然哲学者のプトレマイオス・クラウジオスです。英語読みでは、トレミーと呼ばれますが、トレミーのほうが我が国では一般的かもしれません。

 彼は、当時の星座名を48座に統合整理し、大著『天文学大全』を書きます。『天文学大全』は、ギリシア語で『メガレ・シンタクシス』という題名でしたが、アラビア語に翻訳されて『アルマゲスト』とよばれ、これがヨーロッパに逆輸入され『アルマゲスト』のほうが有名になりましたに。天文学大全という名前の通り、この本は古代天文学の集大成であり、いわゆる「天動説」を確立するものでもありました。後に、コペルニクスやガリレオが出て地動説が提唱されるまで、この考え方は、聖書・キリスト教の教えと結びついて、西洋の思想・学問・生活を支配するものになっていったのです。

 この間、星座の数は、増えもせず減りもせず、名前も変わらず、プトレマイオスの星座がずっと使われ続けました。16世紀まで1500年間もずっと同じ形で使われたのです。そして、この48星座の47個までが、今も私たちが使っている星座です。この48星座は、「古代48星座」または「トレミー(プトレマイオス)の48星座」と呼ばれています。

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3.近代の新設星座

 ということで、あっという間に1500過ぎ、時代は近世になります。近世になって、主に2つの理由で、新しい星座がどんどん追加されます。

 ひとつは、暗い星が観測されたり、望遠鏡の発明などに伴って、空のどの部分にも目が向けられるようになっていったからです。じつは、プトレマイオスの星座は、明るい星のない目立たないところは、どの星座にも属さない「空白の部分」があったのです。それでは、天体観測には不便です。これが一つ目の理由です。

 二つ目の理由は、1420年頃から1620年ごろにかけて繰り広げられた「大航海時代」によって、それまで西洋の人たちが行ったことのない低緯度地方、さらに赤道を越えて南半球に足を運ぶようになったことです。南半球にいくと、北半球ではみられない星が見えるのです。船を進めるには星の位置を知らねばならず、そうした遠洋航海上の必要性からも、これまではなかった南の新しい星座が必要になってきたわけです。

こうして、16世紀の半ばから、約300年間、新しい星座をつくるといった動きが天文学者や、星図・天球儀をつくるひとたちによって盛んにおこなわれるようになっていったのです。

17世紀初頭〜18世紀のバイヤー、ラカイユは、それまで知られていなかった南半球の空の星座を考案した天文学者です。また、チコ・ブラーエやバルチウス、へベリウスも、それまでの星座の間を埋めるように、新たな星座が付け加えていきました。

 

(1)チコ・ブラーエ

新星座を作り出した最初の人は、16世紀に活躍したチコ・ブラーエです。チコは、惑星の位置とその変化を精密に観測した人ですが、その貴重な資料を使って後に、惑星の動きを研究したのが弟子のケプラーです。チコは、1572年にチコの新星を発見するなど、多くの功績を持っていますが、星座の歴史の上では、ヒッパルコスがつくりながらプトレマイオスは48星座の中に入れなかった「かみのけ座」を復活させた人です。

(2)バイエル(バイヤー)

 ヨーハン・バイヤー(15721625)は、ドイツ南部バイエルンの農村に生まれた弁護士でしたが、アマチュア天文家としても活躍しました。彼は、『ウラノメトリア,1603』を31歳で出版し、現在まで名を残しています。『ウラノメトリア』は、プトレマイオスの48星座に、南の星座12個を追加し、全天1709星の星を描いた51枚の星図です。

 ケンタウルス座の下に、当時は正式な星座にはなりませんでしたが南十字を描き、ケンタウルス座の一部にした、次の12の南の星座を新しくつくりました。

 ・ふうちょう・カメレオン・かじき・つる・みずへび・インディアン・くじゃく・ほうおう・みなみのさんかく・きょしちょう・とびうお・はち座。

 このうち、はち座は、のちにはえ座となって、今に伝わっています。また、チコがつくったかみのけ座は、入れていません。また、マゼラン大星雲を、マゼラン座として入れたともされていますが、定かではありません。

 これらの南半球の星座は、バイヤーが直接見て記録したわけではなく、オランダの航海家ペトルス・テオドルスが観察したものだとされています。

 また、バイヤーは、各星座の星々に、明るい順番に

αアルファ・βベータ・γガンマ・δデルタ・εエプシロン・ζゼータ・ηエータ・θセータ・ιイプシロン・κカッパ・λラムダ・μミュー・νニュー・ξクシー・οオミクロン・πパイ・ρロー・σシグマ・τタウ・υユープシロン・φパイもしくはフィー・もしくはピー・χカイ・ψプシー・ωオメガ

 とギリシャ文字のアルファベットを付けたのですが、これが現在も天文観測家によって毎日のように使われるものとなり、「星のバイエル符号」と呼ばれています。

 

(3)シラー

 みなさんは、こんな疑問を持ちませんか? 星座というと、なぜギリシア神話によって脚色されいるのであって、なぜ、あれほど権威を振るったキリスト教ではないのでしょうか。星座にキリスト教に関わる星座はないのでしょうか。

 実は、キリスト教の立場からキリスト教儀に登場する人々や道具を星座絵として制作した人がいます。15世紀、キリスト教内部でルターが宗教改革を起こしたのは有名ですが、その改革派・プロテスタントにイエズス会の反改革運動も、特にドイツで運動を起こしました。そのドイツで、熱心なカトリック教徒でイエズス会の会員であったシラーという人は、それまでの星座に変えて、ダビデ王・ノアの箱船・十字架座・キリストの飼い葉桶座、聖ペテロ座などの星座を描きました。しかし、その星座たちは、まったく使われることはありませんでした。

 

(4)ケプラー

惑星の運動の法則を発見したケプラーは、チコの弟子ですが、2世紀のローマ皇帝ハドリアヌスがつくったアンティノウス座を復活させました。アンティノウスは、小アジアのビティニアという国からつれてこられた奴隷の男の子で、皇帝ハドリアヌスがかわいがっていた実在の人物です。アンティノウスは、130年にナイル川でおぼれ死んでしまい、皇帝は嘆き悲しみ、星座にしました。これは、バイヤーやチコ、メルカトルも、古い名称として認めていましたが、ケプラーはこれを正式な星座としてしまいました。現在は、わし座となっています。

 

(5)バルチヌス

 ケプラーの娘と結婚したドイツの数学者で、いっかくじゅう座・キリン座、きたばえ・ティグリス座の4つを新設。現在いっかくじゅう座・キリン座の2つが残っています。

 

(6)ロワーエ

フランスの天文学者で、はと座、南十字座をつくりました。おうしゃく座・ゆりのはな座は、認められていません。

 

(7)ハレー

万有引力の発見者ニュートンの友人で、ハレー彗星の研究からその回帰を予言した、イギリスの天文学者エドモンド・ハレーは、イギリス王のチャールズ2世の名誉を記念して「チャールズの樫の木座」を新設したものの、その後消滅してしまいました。また、同じくチャールズの心臓という意味のコル・カロリをりょうけん座α星の名前にしましたが、このコル・カロリという名前は、現在も使われています。

 

(8)キルヒ

 現在のドイツの一部、プロシアの王室天文学者のキルヒは、彼が使えていた王・ベルヘレム1世をたたえて、「ブランデンブルグの王しゃく」座をつくったが、その後は使われなくなりました。

 

(9)ヘベリウス

 17世紀のポーランドの天文学者ヘベリウスは、ポーランドの王ヤン3世に保護されて優れた天体観測を行いましたが、現在も正式に使われるこぎつね・こじし・たて・とかげ・やまねこ・ろくぶんぎ・りょうけんの7星座をつくりましたが、ケルベルス・小さんかく・マエナルス山座の3星座はすたれてしまいました。

 

(10)ラカーユ

 18世紀の天文学者ニコラ・ルーイ・ド・ラカイユは、パリの子午線長さを計算したり、南の星々の位置を観測した実力派の天文学者でした。南半球に、近代的な理化学機器などの多い、がか・けんびきょう・じょうぎ・ちょうこくしつ・ちょうこくぐ・テーブル山・とけい・はい(はえ)・はちぶんぎ・ぼうえんきょう・ポンプ・レチクル・ろ座の13星座を新設。また、1756年、巨大な星座ラルゴ座を、正式に4分割し、とも・ほ・らしんばん・りゅうこつとしました。

 

(11)ルモニエ

フランスの天文学者で、ピエール・シャルル・ルモニエ(1715-1799)。パリ大学の物理学教授で、1782年にハーシェルが天王星を発見する前に、何度も新しい惑星とは気づかずに天王星を観察した人。となかい座とつぐみ座を新設したが、両方ともすたれてしまいました。

 

(12)その他

 ポーランドの神父ポスツォブトが18世紀にへびつかい座の中につくった、「ポニアトフスキーのおうし座」、同じく18世紀の天文学者ジョセフ・ジュローム・ル・フランセ・ド・ラ・ランドがつくった軽気球・ねこ・監視者メシエ座・壁面四分儀という4星座も、今ではまったく忘れ去られています。しかし、壁面四分儀座は、現在も1月に活動するりゅう座流星群の別名「しぶんぎ座流星群」として、わずかに生き延びています。

 

4.星座の確立

 このようにして、当時の著名な天文学者の間で新星座作りが流行したのですが、最大130個ほどにもなり、一時は混乱状態となってしまいました。そこで、20世紀になって、世界の天文学の拠点ともいうべき国際天文学連合でこの問題が取り上げられるようになり、オランダのデルポルトを委員長とする小委員会が1922年につくられ、無理なこじつけや国際的に通用していないものは次第に廃止、その境目も、かつては曲線だったものを直線に、さながら砂漠の中の国境線のように確定し、88個の星座に整理統合。1931年に確定しました。

 現在、星座そのものに科学的な意義はあまりありません。しかし、星座は、流れ星を観察したり、天文観測家が星を観測・追跡したりするのに役立ちます。たとえば、新星には「いて座新星2001」などと、出現星座名が新星の名称となります。「○○座流星群」という流星群の名称も学際的に認められた正式名称です。また、新彗星が「○○座に出現」というニュースが流れると、世界中の天文学者や観測家は、その季節と星座名から観測可能時間帯を把握し、その晩の観測計画を立てる手がかりとします。現在では、88の星座が公式に認められていますが、その役割は「星空の住所」といったところでしょうか。